例えば同じ本を読むのでも、書かれていることが少しだけわかる人、書かれていることの半分くらいがわかる人、書かれている事ことのすべてがわかる人とさまざまです。しかし、なかには書かれていること以上のものを感じ取り、思考を展開することのできる人がいます。
そういう人は、文章のいろんな部分を自分に関係づけることができます。一見自分には関わりのないようなことでも、自分の関わることに照らし合わせて考えられるのです。
このことはちょうど樹木が深く伸ばした根っこから、さまざまな栄養を吸収していく様子に似ています。根っこが広く深いほど、幹から遠い栄養も自分のものにできるのです。
ある人の言葉や行動が樹木の「枝葉」であるとすれば、それらはすべてその人自身という「幹」から生まれています。どんな「幹」であるかによって、その先にできる「枝葉」はそれぞれに変わります。栄養をたくさんとってしっかりとした「幹」には、しっかりとした「枝葉」がつくでしょう。栄養が足りないか細い「幹」には、やはりか細い「枝葉」がつくかもしれません。したがって重要なのは、「幹」を太くする「根っこ」であるといえるでしょう。地中に広く深く下ろした「根っこ」なら、あっちの端やこっちの端から、実にさまざまな栄養を集めて「幹」を太くできるのです。
はじめに読書の例を出しましたが、これは読書に限った話ではありません。社会生活においても、さまざまなことを感じ、考える人は、広く深い「根っこ」を持つ人です。そういう人はあらゆるものを自分の栄養として吸収し、自分自身という「幹」を太く強くして、やがて立派な「枝葉」を、「花」や「果実」を、つけることができるのです。
いわゆる「デキる人」になってほしいのではありません。しっかりとした「幹」を持つ人になってほしい。そのために私たちは「根っこ」を広く深く伸ばすことにこだわるのです。
一見バラバラについている葉っぱ同士は、枝を通って一本の幹でつながっています。そしてその幹もまた、地中深くに下りている根っこの上に成り立っています。これは物事を理解する上で重要な示唆をもたらすものです。
世の中のあらゆるものは決してバラバラには存在していません。たとえばダイエットの成功者には勉強ができた人が多いという研究結果が話題になりました。ダイエットと勉強、一見関係なさそうですが、実はどちらも「自分に合った頑張り方を知っている」「計画を立て実行するのが上手」「忍耐力が強い」など大事な根っこが「共通」しています。また、大人になっても「あの経験がこんなところで役に立った!」ということはよくあります。これも何かしら根っこに「共通」部分を持っていたからに他なりません。あるいは、上司に与えられたいくつかの仕事をこなすうちに、「じゃあ次はこれもやっておこう、あれもやっておこう。」と、言われないことまでどんどん自分で仕事をこなしていける人がいます。これも最初に与えられた仕事のいくつかから、「どの仕事も△△を○○にしているな。じゃああの仕事も△△を○○にしておけばいいのか。」という風に、根っこにある「共通」部分を見出せるからこそ可能なのではないかと思います。
学問もまた大樹のように成り立っています。教科や科学の「科」の字には「ものごとを分ける」という意味があります。幹から枝へ、枝から葉へと分かれるように成り立っているのが学問なのです。ではそれら枝葉の知識をよく理解するにはどうしたらいいでしょう。それはやはり共通する部分、つまり根っこ、「根本」の部分を理解することでしょう。根本の部分を理解すれば、まだ誰かに教わっていないことでも自分で考えられるようになります。そして世の中や人生にあふれる「答えのない問題」にも、答えを出せるようになります。だからこそ、私たちは物事を根本から考えることを教えます。
人の「個性」がどこにあるか、それは誰にもわかりません。それでも多くの人がきっと自分自身の中に確かに存在しているものだと信じて疑わないことでしょう。でもここで一つ、違う見方をしてみます。
人はあらゆる属性の中を生きています。どこの国の人だとか、性別はどうだとか、どこの町に住んでいるとか、○○家の一員であるとか、長男長女末っ子一人っ子、会社や学校、何が好きで、何が嫌いで、瞳の色は何色、靴のサイズは何センチ、挙げていけばきりがないほどの属性に囲まれています。ただ、これらの中で「これは世界で自分だけ」というものがある人はどれだけいるでしょうか。たとえば「大好きなあの人に振られて泣いちゃった」なんていう自分だけの特別な感情さえ、実際には多くの人が経験するもので、だからこそ失恋ソングが多くの人の胸を打ちます。
ここで考えられるのは、「個性」とか「自分」というのが、実は「中身」でなく外側からつくられた「形」のことではないかということです。いろんな形をした属性の”影“をすべて重ね合わせていって、ちょうどその全部が重なる部分、そこにあらわれる「形」が「個性=自分」であるといえるでしょう。
どうしてこんな話をするかというと、「自分」を形づくるものはいつだって「自分以外」のものであると言いたいからです。例えば生まれた時は一人っ子でも、弟や妹が生まれると急に「長男(長女)」になります。それが「長男(長女)である自分」という属性を与え、周りの対応も、自分の意識も変えていく。「自分」は、常に「自分」の以外のものによって変えられていくのです。時に人はこれを“環境“と表現したりします。
あなたの中にあるのは生物としての“意識“であって、「個性」や「自分」ではない。「個性=自分」は他者によって作られる。
だとすれば人間が「自分」であるためには、「自分以外」と関わって、つながって生きるしかありません。そしてまた、多くのものとつながればつながるほど、重なる“影“は濃くなって、「自分」という存在が確かなものになっていきます。それゆえ人は属性を失った時、底知れない不安に襲われ、自分自身を見失ってしまう。だから、とにかく、社会と、世界とつながらなければならない。生きていくために。人が働く意味も、こういうことが理由の一つになっていることでしょう。
私たちは、対話式の授業や学習そのものを通し、自分以外の「他とつながること」という意識を身に付けることも目標としています。
樹木の根っこが大きく広がっているのは、単に栄養を取り込むためだけではなく、樹木全体をしっかりと大地の上に支えるためでもあります。
人も同じです。しっかりと根を張っている人はちょっとやそっとのことではブレたりしません。なぜならしっかりとした根の上には必ずしっかりとした樹木が立つように、しっかりと根を張った人は、やはりしっかりとした「自分」を持っているからです。 勉強についても同じことが言えるでしょう。しっかりと定着した思考の持ち主は、難問難題が目の前に現れてもビクともしません。自分の持っている知識の枝葉や思考の根幹を使って、きっちり答えを出してしまいます。逆に言えば、知識や思考は定着しないと「自分のもの」とは言えないということでしょう。
私たちは常に、この「定着」ということを意識して授業を行います。そのため「今しか通用しないこと」は教えません。「よそでは通用しないこと」は「定着」させません。それが教育のあるべき姿だと思うからです。
「思考する」ということ、つまり「考える」ということは、細かく分類整理された引き出しから瞬時に目的の何かを取り出すような、ジャケットにたくさんついたポケットの一つからスッと「答え」を取り出すような、そんなにスマートで美しいものではありません。まるで大雨の泥の中を這いつくばって、あれでもないこれでもないと必死に駆けずりまわって、やっとの思いでたった一粒のダイヤの原石を見つけ出す、「考える」ということはそういうことです。
これまでの学習においては、頭の中の引き出しやポケットに「答え」を入れておけば「アタマのいい人」になれました。でも実際に社会に出るとそうではありません。なぜなら世の中は「答えのない問題」にあふれているからです。そして近年、学習においても「答え」をいくら用意したところで「アタマのいい人」にはなれなくなりました。
rootはできるだけ多くの「道具」を与え、できるだけ多くの「使い方」を学習者が身に付けることを目標にしています。そうして学習者が磨き上げたダイヤこそが、これからの「答え」となり、新たな時代をつくっていくのです。
いつだって応援します。もし本人があきらめても、私たちはあきらめません。なぜなら私たちの目の前に座り、私たちの話を真剣に(時には眠たそうに)聞いているのは、いつだって私たちの「未来」そのものだからです。
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